Fiori

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Short Story

丘の下の「わたし」
 珍しく月の白い夜の、明け方のことでした。
 十六夜を過ぎた細い月の下、雪に染まった丘の上、青年は雪を踏み締めます。
 新月が近いからでしょうか。本来ならば暦が夏に差し掛かるからでしょうか。
 背を向けた東の空は、幽かに白み始めているようでした。
 しかし青年はそんなものには構いもせずに、暗い西の空を見据えて丘を登って行きます。
 黒い帳を見据える瞳は、琥珀の色でした。古代の記憶を秘めた宝珠の色の中、足を踏み出す度に懐かしくさえある面影が移ろいます。
 白い丘を登り切ったところで、青年は足を止め、ゆっくりと瞳を閉ざしました。
 まるで瞳の中に移ろう面影を永久に留めておこうとでも言うように。
 ただ、ゆっくりと。
 ゆっくりと。
 面影の主は、彼の愛した人でした。
 最も、その人は既に彼の瞳の中以外には存在しないのですが。
 大切な人の愛惜しい温かみを求めるように、青年はそっと己の頬に手を触れました。
 白い、空ける様なその指先を、暖かいものが濡らしてゆく感触がありました。
 大切な人を染めていた赤さと同じ温度の雫です。それを自分の心だと、青年は思いました。
 自分の心が、静かに溶けているのだと。
 思い返して見れば、大切な、大切だったあの人も、しばしば同じものを流しては眦を拭っていたような気がします。
 嬉しい時、哀しい時、寂しい時。
 そして自分を想って、微笑んでくれた時にも、一度。それ以外にも幾度か、自分の為に透明な雫に頬を濡らしていたような気がします。
 でも、もう大切なあの人は青年の為に眦を拭ってくれる事は無いのです。
 そうさせずに済むのだ、と考えると彼は幽かな安堵を感じましたが、指先を濡らすものはただ増えていく一方です。
 溶ける自分の心はこんなにも多かったのかと、青年は驚いて眸を見開きました。
 改めて視界に広がる空の中で、黒い色は西の果てに僅かに残るのみとなっています。もう、流すものもそう多くは無いのかも知れません。
 しかし朝日の指先に輝く白い丘の上、青年は大切なものを流し切ってしまう事を不思議と恐れてはいませんでした。
 その方が良いのだろうとさえ、彼は一人思います。
 ――大切な人。自分に大切なものを与えてくれた人。
 あの人の許に、貰ったものは置いていった方が良いのでしょう。
 自分の為に幾度となく泣いてくれた人の名前さえ、忘れた方が良いのでしょう。
 そう思い、ここに来て初めて、青年は手にしていたものの重みを自覚しました。鈍く輝く、それは短剣の重みです。
 幾度となく血に染まったくせに白さを保っている指先は、丘を登る前からきつく革の鞘を掴んでいた所為か、酷く強張っていました。けれど。
 冷たく濡れた手を添えてやると、痺れていた指先に革の感触が戻って来ます。
 青年はそれを供にして、静かに注意深く丘を下り始めました。
 心をくれた大切な人が自分から奪ってしまったものを、取り戻す為に。昔の自分に戻る為に。
 向かう西の果ても、彼の歩に合わせて白んでゆきます。

 明けてしまった夜は珍しく、月の白い夜でした。
Navi
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